『音楽劇 マリウス』@大阪松竹座(2018/06/08)
オセローを見に行った記事はすぐに書いたけど、実はその前に桐山照史くんが主演を務めた『音楽劇 マリウス』も見に行っていた。
なんならジャニーズWESTのファンになって最初の現場がこれで、当時の状況(すでに半年の引きこもり)を考えるとかなりでかい出来事だったのだけど、そういうわけで記事に残せるコンディションでもなかったので今日まで放置していた。
終演直後から数日にわけてスマホにメモしていたものを頼りに、今から書いてみようと思う。
マリウスが海に出る前後、一幕終盤以降の感想が主で、ストーリーをご存知の方にしか伝わらない書き方かもしれない。
「俺のこと好きじゃないのか!」
好きに決まってんだろ だから言ってんだよバカあああこういう展開好き
『音楽劇 マリウス』に関するメモはここから始まっている。
たぶん、船に乗るかどうかまだ決めあぐねているマリウスを、たとえ突き放すような形になってでも送り出したかったファニーが、そんな彼に浴びせられたセリフだったと思う。
マリウスの夢を知っているからこそ、心を鬼にしてマリウスを突き放したというのは明々白々で、それを理解していないのはあの空間においてマリウスだけである。
”優しさ(安易な言葉で恥ずかしい)が作用しすぎて互いに悔いが残る展開”というのは、いつでも胸をかき乱してくるものだ。
さらにその乱れた心に追い打ちをかけたのが、以下の要素だったと思う。
盛大な音楽だからこそ悲壮感が煽られる感が楽しい
神経を逆なでされている感覚
強い言葉で自分を突き放したファニーに怒り、船に乗り込んでしまったマリウス。客席の自分はすでにファニーの悲壮な表情に釘付けで、こちらも胸が張り裂けそうな感覚に顔は相当歪んでいた。
しかし聞こえてくるのは、”祝福”を思わせる、船を見送る人々の歓声と盛大な音楽。”そうでない”ことで、ファニーの悲壮感はより浮き彫りになってしまい、やがて彼女はその場に倒れ込んでしまう。
これが一幕の最後のシーンなのだから、酷く煽られた。二幕が始まるまでロビーでずっと、分からず屋のマリウスへの怒りと格闘していた。
ファニーはめっちゃ考えてるよ。女手一つで育ててくれた母になじられても、それは理由があるんだと言ってた
じゃあなんでファニーはそれ以前にマリウスと関係を持ってしまったのか。
それを以下のように考えていたっぽい。
手に入りかけたらアッ違うって思うんだよな。手に入れるまで躍起になってるときは相手の気持ちを尊重することを少し忘れてしまうけれど、振り向いてくれたときにもう一度相手の目を見て、彼の目には何が映ってるか確認して、そこで私が100%じゃないってなる。
要は、恋が愛に変わる瞬間があったんだと言いたかったのだろう。
マリウスがファニーに夢中になるまで、ファニーはわりと自分本位な姿勢で彼を口説いていたように思う(具体的な文言はもう忘れてしまったけど)。
しかし実際にマリウスが振り向いてくれて、ファニーとの人生を意識し始めたころに、彼女の中でこれが本当にマリウスの人生にとって正しい選択なのか、疑いが出現する。
一方的な恋から、相互的な愛になった途端、彼女は迷ってしまったのだ。
しかし自分が100%でない=彼にとって最善でない、と考えてしまうところから推測するに、やはりファニーは少々幼かった。
もうきっとマリウスの中ではファニーとの人生に天秤が傾いていたけれど、彼の中に少しでも妥協があるのなら今の選択は彼にとって正しくないとファニーは思ってしまう。間違いとか正解とかないんだけどね。最新の選択が最高だから
船に乗り込まなければならない直前、マリウスの心はすでに”ファニーが引き止めるだけ”になっていたように思う。そうしてマリウスはそうされることを望んでいた。
しかし今になって思うのは、それは一つの責任転嫁である。無意識で「ファニーが止めたから海に出なかった」「ファニーのために夢を諦めた」そんな事実を作りたかったのではないだろうか。マリウス自らでは夢を諦めることも、ファニーとの可能性を捨てることもできなかったのだ、きっと。
そう思うと、優柔不断なマリウスと気丈で決断力のあるファニーはベストカップルであり、しかしゆえにこの運命において共に生きることはありえなかったのだと、なかなか腑に落ちた。
小さい国のわずかな地域で噂好きの人たちに囲まれて過ごすのは、思っているより窮屈なのかもしれない。彼は苦しい決断をしたけれど、きっと外に出て色んな人に出会う。きっと幸せに死ぬ。
上記のことと同時に、マリウスがあの小さな町で生涯を終えることはありえないとどこかで思っていた。けしてあの国で生きる人のことを悪く言いたいわけではない。ただ、彼には彼に合った生き方を切り開いていく必要があったのだろう、そういう意味である。
だから、マリウスの父であるセザールが、以下のように言っていたとき、また心が乱れた。
「俺がもっとあれこれしてやれてたらこんなことには」
滅茶滅茶愛情注いでるじゃん!不器用なだけでね!セザールがそんなこと思う必要性はない でもこれが親心か けれど子はわからない 親の心子知らず
マリウスの父、セザールは絵に描いたように不器用で、あと結構な頑固者だった。マルセイユのあの小さな港町で生きてきたセザールは、マリウスもまたそうであれば、彼が幸せな生涯を送るに違いないと思っていたらしい。
ただマリウスが実際に海へ出ていってしまったあと、セザールの怒りを最も掻き立てたのは、息子が自分の言葉を聞き入れなかったことではなく、ファニーが身重であることも知らずに彼女を置いていったことだった。
「幸せにやってます」
手紙の優しい嘘と船の上で歌う本音
船上のマリウスからの手紙に書かれた「幸せにやってます」という言葉に、セザールはさらに怒った。ファニーにこんな思いをさせて、自分は外の世界でのうのうと生きているなんて、許せないと。
ただ客席の我々は知っていた。実際のマリウスは船上からファニーへ募る思いを懇懇と歌い上げていて、そちらが彼の本心であると。
きっとマリウスなりに、もう自分のことは心配しなくていい、あなたたちはあなたたちの人生を生きてと伝えたくて、そんな嘘をついたのかもしれない。
ファニーはたぶん分かってるけど、それを真に受けることがお互いに幸せだとわかってる
自分のために怒り狂ってくれるセザールを、マリウスが幸せならいいのよと宥めるファニーは、すでにマリウスの手紙が優しい嘘であると気づいているように思われた。
しかしセザールの、人を思うがゆえの怒りをないがしろにすることもできず、彼女は手紙の内容を言葉のまま受け入れているかのような態度でありつづけた。
じゃあなんで「忘れないで」って
マルセイユにあなたを思ってる女がいるって忘れないでって
しばらくしてマルセイユに再び姿を現したマリウスだが、ファニーにはすでに家庭があった。その子どもがマリウスとの子であっても、マリウスがファニーとその子を連れてマルセイユを再び出ていくことは許されない。彼はもう取り返すことができない。
その事実に太刀打ちできないと悟ったマリウスは、後ろ髪を引かれながらもファニーの前から立ち去る。そんなマリウスにファニーは最後「マルセイユにあなたを思ってる女がいるって、忘れないで」と声をかけた。
…当初、そのセリフを脳で処理しきれなくて「(なんでそんなこと言うの?!)」とひたすら驚いた。マリウスに夢を追いかけさせるため、彼をマルセイユに引き止めてしまいたい自分を押し殺してずっと貫いてきたのに、最後の最後で!なんで!!
でも今このメモを見たときにやっと気づいた。きっとファニーはマリウスに「あなたがどこに行っても、あなたはひとりじゃない」と言いたかったのだと。
たとえマリウスが知らない土地で孤独を感じて、過去を取り戻したいと思うことがあっても、それに飲み込まれずまた次に進めるように。
引き止めるためでなく、送り出し、そのあとも彼が歩み続けられるように、ファニーはあえてその言葉でエールを送ったのだ。
冒頭とラストにマルセイユの人たちが歌う歌
そう、マリウスがそれで幸せを感じて死んでいける人生観だったならよかったのにね そうじゃないんだよ彼は
一幕の最後同様、マルセイユの人々の歌は再び”そうでない”ことを浮き彫りにしてきた。
小さな港町で顔見知りの人たちと過ごし、笑い、死んでゆく。それも一つの選択である。
しかし広い世界に夢を抱くマリウスにとっては少々息苦しかったはず。そう思うと、一見切ない選択肢しか残っていないように思えたこの物語のラストも、実はマリウスにとって(自覚があろうとなかろうと)必然だったのだろうと、こちらは消化することができた。
さいごのふらめんこにかれの気持ちがぶつけられていると思った フラメンコは怒りのダンス 怒りとは違うけど、それに似た何かが内側でぐるぐる回る
稽古中の照史くんのブログに”フラメンコは怒りのダンス”と書かれていた気がする。
それを読んでから二度目の観劇に行ったとき、カーテンコールで激しいフラメンコを踊るマリウスを見て「ああ、これが彼の怒りか」と思ったのが印象的だ。
自分だけが何も知らずに海へ出て、恥を忍んで帰ってきたらもう環境はすっかり変わっていて、様々な事実(ファニーが自分の子を産んだこと、しかしすでに配偶者は別にいること、自分がそれらを手に入れることはできないこと)を目の当たりにして、もはやまた船に乗って海へ出るしか選択肢が残っていない。
これらについてマリウスが抱く感情すべてが”怒り”だと言ってしまえば、この物語はそれきりになってしまう。実際は、ファニーが望んだようにマリウスなりに次へ歩を進めるだろう。
しかしあの瞬間彼の中にあった、”わずかで強烈な”行き場のない気持ちが、あのフラメンコにはぶつけられていたのではないかと、今でも信じている。
あとは上記よりさらにざっくりとしたメモたち
衝撃的な事件が起こったわけじゃない、それも変化の瞬間は描かれていない けれどファニーが心を変えて決断したことがぐんと伝わってくる
瀧本美織さんの舞台出演歴を見て驚いた。たった数年である。なにせ声が美しく通るうえ、歌がきれい。
(プロの女優さんにこんな評価をするなんて失礼かもしれないが)あの大きな舞台でありながら、ファニーの内面の変化について、衝動的で情動的な演出がなかったのに、三階席にいても確実に理解させられた。
私だって乳バンドくらいしてるわよ てセリフがなんか好きだった
あと汗かいたからって着替えに帰るのがなんかみずみずしくてエロいなと思った
実際当時のマルセイユの女性がこんなふうに開けっぴろげに話してくれる感じだったのかは、ちょっとわからないけれど。
パニス最初ちょっと苦手なくらいだったけど、すごいいい人で、つまり誰一人嫌いになることができない舞台だった。なんならマリウスに一番腹立ってる。
同事務所の同世代でこの役をできるのは、彼だけなのかもしれないと、ファンながらに思う
ただめちゃくちゃセックスしたくなるな 愛する人とな
…本編を語る上で必要かと言われたらあやしいけど、素直でよろしいと今の私が判断したので記載しておく。
そのあと、メモはこれで終わっていた。
こんな気持ちにさせてくれる生の舞台をもっと見たい
社会復帰したい
なんでまた身の上話をしてしまうのかというと、オセロー同様、この舞台も当初は今井翼さんが出演する予定だったからだと思う。
翼くんに自分を重ねるのはこの上なくおこがましいことだとわかっているけれど、やはり完全な他人事として処理することはできない。
公演が終わってからも、照史くんがこの舞台について語る際、必ず翼くんの名前を入れていたこと、とても印象に残っている。
一年以上経ってやっと向き合って書けた。
読んでくださった人、ありがとうございます。
またこんな体験ができる舞台があればいいなと思います。
『オセロー』@新橋演舞場(2018/09/20,21)
9月20日の朝、東京行きの新幹線に乗った。
東京遠征は去年の11月、吉本の芸人「男性ブランコ」の単独ライブを見に行った以来だ。
今回東京の劇場へ足を運ぶことを決めたのは、ジャニーズWESTの神山智洋さんが『オセロー』に出演すると知ったから。
…お笑いファンだった私は今年、ジャニーズWESTのファンになっていた。
この記事は2018年9月2日から26日まで、新橋演舞場で行われた『オセロー』の感想が主となります。
自分にとってシェイクスピアの作品を見るのはこれが初めてで、もちろんオセローという戯曲に関する知識もありません。
神ちゃんがWESTのラジオで「予習したほうがいい」と言っていたので、この度角川文庫から発売された河合祥一郎氏・訳の『新訳 オセロー』をなんとか読んだ程度の事前知識です。
なのでこの記事にある感想や解釈はあくまで、”河合祥一郎が訳し、井上尊晶が演出をつけた「オセロー」”から個人的に感じ得たもの。
専門家による研究やシェイクスピアファンによる考察等とはまた違った内容になると思うので、あらかじめご了承ください。
目次
─セットや演出について─
◎大胆に動き回る舞台セットたち
◎伏線がめちゃくちゃわかりやすい!
◎赤い影、赤い月
─キャラクターや役者について─
◎ときに子どもに映るオセロー@中村芝翫
◎世間知らずでしたたかなデズデモーナ@檀れい
◎嘘をつく才能に恵まれてしまったイアーゴー@神山智洋
◎あまりにも哀れで愛おしいエミーリア@前田亜季
◎不憫でかわいいロダリーゴー@池田純矢
◎劣等感を刺激してしまうキャシオー@石黒英雄
◎ミゼットプロレスラーの出演
─イアーゴーの小さな世界─
◎殺戮エンドの意図を考える
─最後に─
◎身の上話と今井翼さんへ
─セットや演出について─
◎大胆に動き回る舞台セットたち
開始数分でまず圧倒されたのは、あまりにも大胆な舞台装置の数々。
第一幕では、水の都 イタリア・ヴェニスの街並みを再現するため、計5隻ものボート(動力なに?)が舞台袖から滑らかに登場、窓付きの外壁(しかも2階建て仕様)もしっかり出てくる。さらにその後ろにはくぐれるほどの大きさの橋まで。
…ディズニーランドのイッツアスモールワールドって外から見るとこんな感じなのかもしれない、と思った。アトラクションのごとく動き回る舞台装置の上で芝居をするのは、さぞ気持ちのいいことだろう。
ボートに乗ったキャシオーたちが手にした松明だって本物の火が煙を上げていて、その作り込みの強さに開始早々オセローの世界へ飲み込まれてしまった。
(しかしこんなに見事な装置たちは第一幕の前半、ものの15分程度しか出番がないのだと終演後に思いを馳せ、白目を剥かずにはいられない感覚にもなった)
第二幕からは、こちらも可動式の大階段が3つ登場し、以降このセットが位置を変えながらではあるが、常時舞台上にいることになる。
二幕の頭では嵐の混乱を表現するため、この3つの大階段と複数の壁が激しく入り乱れるのだが、一歩でも間違えればアンサンブルの方が大怪我をするであろう、あまりにも危険なシーンになっていて、セリフが入ってこないくらい見ていてハラハラした記憶。
あと階段について印象的だったことは、イアーゴーの俊敏な上り下りと、女性陣の見事なドレスさばき、そしてなにより宴会のシーンで、肩をがっちり組んだ二人組が”単体でもそのスピードは無理”くらいの勢いで駆け下り、乾杯の輪に突進してきたこと……あれを見るだけで2000円くらいの価値があると思う。
そして観劇した人のほとんどが衝撃を受けたであろう、全面鏡のパネル。
舞台を、上袖から下袖まで一直線に横切るその鏡には、舞台上の役者はもちろん、1階席前方の観客の顔まで映し出し出されていた。
それが今回のオセローという作品の、なにを象徴するために採用された演出なのか、勉強不足の自分にはまだまだ理解できそうにない。
ただデズデモーナとエミーリアを嘘でなだめ言いくるめた直後のイアーゴーにとって、そこに映る自分が”緑の目をした怪物”に見えたことは、わかったつもりでいる。
◎伏線がめちゃくちゃわかりやすい!
シェイクスピアというブランド名だけを聞くと、とっつきにくい台詞回しで読解にとんでもないエネルギーを必要とするシナリオ、というイメージがあった。
確かに役者にとっては、馴染みのない古典的な言い回しで後述するキャラクターをエネルギッシュに演じることはとても大変だろうと察する。
ところが意外なことに、観客として見ている分にはずいぶんと飲み込みやすい、という感覚があった。
セリフの言い回しが良い意味で大仰で、物語のテーマや伏線となりえる言葉をはっきりと立てて言っていたのが、その理由のひとつだろう。
(あくまでイメージだが)現代では、初見では気づけないところに伏線や匂わせがある作品が”深みがあって良い”と評価される傾向にある気がする。
展開や結末を知った上で再度見て「ここでこんな発言していたなんて意味深!」となる感覚が、現代人には気持ちがいいのだろうし、自分もそういったシナリオは大好きだ。
しかしこの舞台では、その意味深な部分が、初見でも「伏線だな」「後半に掛けてるな」と察せられる仕様になっていた。
なので見ている最中にやたらとキャラクターを疑ったり、意外すぎる展開に心を削られたりということがなく、比較的バランスの取れた精神状態で見ることができたと思う。
意外や意外にも、シェイクスピア作品は演劇初心者がとっつきやすいシナリオなのかもしれない。
それでももちろん、それぞれの展開に翻弄されるキャラクターたちを見るのはとても心が痛む。
どんなに先回りしていても、やはり彼らが苦しむ姿に感情移入させてもらえたのは、あの俳優陣が懸命にキャラクターを生きたからだろう。
◎赤い影、赤い月
ヴェニスの議会で人が去ったあと、イアーゴーは一人で悪事の計画を立てる。
このときの印象的な演出といえば「赤い影」だ。
正確には、ハの字で上下に設置された巨大パネルに向かって赤い照明が当てられ、そこにイアーゴーの影が大きく映る仕様になっている。
これはキプロス島での宴会後、これもまたイアーゴーが一人頭を働かせているときに使われており、彼の執念を強調するためのものだったのかもしれない。
実際にあの大きな影を目の当たりにした自分は、イアーゴー本人よりもその大きな影の恐ろしさに目が奪われた。
これが演出側の意図したことと一致しているのなら、まんまと魅せられてしまったことになる。
そしてもう一つ、同じ赤を使った演出で、どうしても見逃せないものがある。
それは「赤い月」の出現だ。
第二幕、中央に設置された大階段の後ろに、それはそれは巨大な月が映し出されている。
デフォルトでは白い光を放つこの巨大な月。
しかしイアーゴーの狙い通り嫉妬に狂い始めたオセローが、徐々にその思いに攻撃性を含ませるようになると、呼応するように月が赤く光り始める。
そしていよいよオセローのデズデモーナへ思いが、強い復讐心へと変わると、月どころか舞台全体が真っ赤な照明で染まってしまった。
赤は人を興奮させる色だ。
オセローの心が蝕まれるほど、こちらの心は興奮を覚えていった。
─キャラクターや役者について─
◎ときに子どもに映るオセロー
中村芝翫さん演じるオセローは、自分が思い描いていたよりもずっと脆く、いっそ幼いようにすら見えた。
もちろんデズデモーナとの結婚を叶え、そして将軍としてキプロス島で歓迎を受けるオセローは、見せかけではない、確かな自信に満ち溢れた強い男だった。
けれどイアーゴーの巧みな話術で妻の愛を疑うようになってからのオセローは、背中すら自信なさげで弱々しい。
特に最初の疑念を示す「そうなのか?」からわずかしか経っていない一場面では、それまで胸を張って威厳たっぷりだった姿勢が途端に猫背になったかと思うと、手指を体の前でいじくり始めていた。
この後ろ手が外れた瞬間が、彼の自信の決壊を示すひとつだったのだろうか。
…なぜだろう、このあたりからオセローのことが”かわいく”見えてくる。
それはいわゆるキュート的な意味ではない。
威厳のあった人間が、些細な疑念をきっかけに崩壊していく。
オセローが見せる激しい動揺と狼狽、そして湧き上がってくる復讐心…これから起こる悲劇を想起させるそれらが、非常にエキサイティングなのだ。
”エキサイティングで愛おしい”そんな不思議な感情を掻き立てるオセローが最も”かわいらしく”見えたのは、無実の妻を殺してしまった罪を自覚した瞬間。
地べたに崩れ落ちたオセローはその拳を膝のあたりでぎゅっとしていたのだが、真っ白な衣装に浮かび上がる黒い肌のかわいいこと。
柔らかく白い布に今にも埋もれていまいそうな彼は、まるで何もできない赤子のようだった。
なのに、最期に男を見せられてしまった。
身柄を拘束しようと近づいてくる部下たちを片手で制止するその動作、そして言葉なしでそれに従う部下たち。
このたった一つの動作とそれに対する周囲の反応で、彼が今までどれほどの功績を積み上げ、そして仲間たちと信頼を築いてきたのか、途端にすべてを目の当たりにさせられてしまったのだ。
脆くて愛おしい人だなと油断していたら、見事に裏切られた。
立派だった人間が自ら散る姿は見ていられなかったと言ったら、それは褒め言葉になるだろうか。
◎世間知らずでしたたかなデズデモーナ@檀れい
キャラクターの解釈以前の話だが、デズデモーナとして花道から登場した檀れいさんを見たときに思った。
「(自ら発光してる…)」
若い俳優やお笑いの舞台ばかり見てきた自分にとって、ここまでまばゆい女優さんを見るのは初めての経験で、大阪に帰って家族にこの舞台の感想を話すとき、まず口をついて出てきたのが「檀れい、発光してた」くらいの衝撃だった。
褒め言葉として受け取っていただきたいのだが、デズデモーナは自分にとって非常に癪に障る女だった。
清すぎる上に、強すぎる。こんな羨ましく美しい女性に、嫉妬心を抱かないほうが難しい。
しかし彼女にもちゃんと弱点はあったと思う。それは世間知らずなこと。
名家の箱入り娘は、本人がどんなに目を凝らしたつもりでいても、世界の実をまだまだ見渡せないでいた。
それでも彼女を羨ましく思うのは、”知らないからこその強さ”があったからだろう。
裏切りや疑いを知らないデズデモーナは、オセローに冷たく当たられたあとも、活き活きと自分を奮い立たせていた。
「軍人の妻の苦労」を覚えることに喜びを感じ、逆境に酔っているようにすら見える、その脳天気な強さが、弱い自分の鼻についたのだ。
ところがそんなデズデモーナの強さが、確固たるものになった瞬間があった。
それはまさに彼女が息を引き取るとき、夫の罪をかばうために自ら嘘をついたこと。
この時代のこのお国柄では、嘘をつけば地獄行きを免れることはできないとされていたはず。
しかもエミーリアの「夫を成功へ導くためなら不貞も働く」という考えを真っ向から否定していたデズデモーナがこれを行ったのには、オセローへの愛をあまりにも感じてしまって、とてもとても胸が詰まった。
デズデモーナは、自らの強いポリシーに背いてでも夫の名誉を守ろうとする、強い女だった。そんな彼女のことを心から敬遠することはできない。彼女が死んだ瞬間、彼女のことが大好きになった。
最後にもう一度檀れいさんの話に戻るが、オセローの手で息の根が止まり”死体になった瞬間”の身体表現が、これでもかというくらい現実味を帯びていて、めちゃくちゃ怖くてめちゃくちゃ興奮した。
◎嘘をつく才能に恵まれてしまったイアーゴー@神山智洋
今回のお目当てであったイアーゴーに最も興奮した瞬間、それは妻・エミーリアの腰に回した手が、ぽんぽんと優しく彼女をなだめていたところだ。
イアーゴーの悪巧みなどつゆ知らず、デズデモーナが落としたハンカチを拾ったエミーリアは、夫の言いつけ通りにそれを彼へ手渡す。
エミーリアにはつんけんどんに接していたイアーゴーだが、このときだけは彼女の行いを認め、甘い顔を見せた。
「(調教やん…)」
狡猾なイアーゴーは今までもこうしてエミーリアを手懐けてきたんだ、と察せられたこの瞬間、寒気とにやけが止まらなかった。
嫉妬深い、嘘つき、悪党…様々な言葉でその人格を説明されるイアーゴーだが、自分の目には「嘘をつく才能に恵まれて”しまった”人」に映った。
彼は彼なりに悪事の筋書きをある程度行っていたが、オセローとの対話中にそれらを反諾しているような素振りは見せない。
その様子が「嘘について考えながら言葉を操る」のではなく、「半ば反射的に嘘が口をついて出てくる」ように感じられたのだ。
辻褄のあった嘘が次々と出てくるのは一種の才能ではないか。
イアーゴーは、その自らの才能をうまい使いこなし方を知らなかったのではないか。
自然発生的に膨れ上がっていく嘘は、イアーゴーが計画していた以上の悲劇へと、オセローたちを導いたのではないか。
これは戯曲を読み返して気づいたことだが、当初のイアーゴーはオセローとデズデモーナの破局を願い、そしてオセローから圧倒的に感謝され褒美を与えれるところまでを期待としている。
もちろん、言葉として表にしていないだけで、彼の中ではすでにデズデモーナやロダリーゴーの死までシナリオ化されていたという可能性も、否定できないわけではない。
しかし自分は、イアーゴー自身この悲劇を完全にコントロールしきっていたわけではない、むしろ彼の手に追えないほど事態は雪だるま式に転がっていったのではないか、と考えたい。
そんなふうに考えると、イアーゴーもまた何かに溺れてしまった被害者のようで、愛おしい人間の一人だなと思えるのだ。
あとはキャシオーが酔って暴れ出したときと、オセローが自信を失って酷く狼狽したとき、どうしても堪えきれないといった様子(腕で顔を隠そうとしていた)でニタニタ笑っていて、こちらもすごくニタニタしてしまった思い出がある。
さてイアーゴー絡みではラストシーンについても少し思うところがあるが、それは後述とさせていただく。
◎あまりにも哀れで愛おしいエミーリア@前田亜季
悪党と称されるイアーゴーの妻ならこちらもさぞ悪い顔を持っているのだろうという期待は、いい意味で裏切られた。
それは河合祥一郎氏が新訳した戯曲ですでに予習済みのつもりだったが、前田亜季さん演じるエミーリアは、思い描いていたものよりさらに正義感の強い清い女性だった。
デズデモーナとの信頼関係も確かなもので、特に二人が地べたでドレスを広げ、膝を突き合わせてシリアス気味なガールズトークを繰り広げるシーンは、どちらもすごくかわいらしい。
そんな心を許し合っていたデズデモーナが不貞を疑われてしまうきっかけになったのが、まさか自分の失態とは、それはそれは辛いことだ。
夫であるイアーゴーにも従順で、彼のためなら不貞を働くこともいとわないと言い切れるほどの愛情(忠誠心とも言える)を持っていたのに、その夫がオセローとデズデモーナを陥れていたのだから、半狂乱になるのも仕方ないとしか言いようがない。
知らず知らずのうちにこの悲劇の重要な部分を握らされていたこのエミーリアがあまりにも気の毒で、いつのまにか自分は彼女に強い好意を抱いてしまっていた。
そしてイアーゴーの制止を聞かずに彼の悪事を声高に暴いていく彼女には、直後に夫から死を与えられると知っているからこそ、ときめきが止まらなかった。
エミーリアのような強さを持った女性こそ、手の内に収めたときの快感と言ったらないはずだ。
イアーゴーが彼女を妻に選んだ理由にそれを予想するのは、さすがに考えすぎだろうか。
◎不憫でかわいいロダリーゴー@池田純矢
実はさりげなく階段落ちを披露していたロダリーゴー役の池田純矢さん。
怒り狂うキャシオーの乱闘シーンにてそれを目の当たりにしたとき、ともすれば見逃してしまうようなタイミングで大技にチャレンジした彼に拍手を送りたく、同時に吹き出してしまった。
一言で表すと、不憫なロダリーゴー。
イアーゴーに言われるままに行動するしかなく、これではだめだと腹をくくったのにそれでも奴にまた言いくるめられてしまう彼は、とにかくかわいかった。
「僕のことちゃんとしてくれないじゃないか」というセリフなんて、自分ひとりでは何もできない弱さと、しびれが切れたこのときまでじっとイアーゴーのことを待っていた従順さがにじみ出ている、最高の一言だ。
そんなロダリーゴーは、登場人物の中でイアーゴーのことを初めて「嘘つき」と呼ぶ重要な役割を担っている。
死に際に放ったその言葉で、ついに存在意義を実感させられたのは痺れた。
弱い立場のキャラクターではあるが、彼なしでこのシナリオを語ることはできないだろう。
◎劣等感を刺激してしまうキャシオー@石黒英雄
キャシオーの宮廷風な優男の振る舞いは、イアーゴーに真似できるものではない。
それはイアーゴーの嫉妬心というより、”劣等感”を嫌というほど刺激したはずだ。
イアーゴーがデズデモーナについての下衆な話題をふっかけても、キャシオーはけしてそれになびくことなく、あくまで丁寧な言い回しで彼女を評価している。
そのところ、彼は本物の紳士と言えよう。
けれど酒に弱い上、頭にきたら手が早いところや、さりげなく情婦をつくっているところを見ると普通の男なんだなあとも思う。
イアーゴーはそんなキャシオーの数少ない弱点をうまく突いたのだ。
キャシオー役の石黒英雄さんは、声質が舞台向きでとても聞き取りやすかった。
特に宴会シーンで周囲がざわざわしているときも、彼のセリフだけはきちんと聞き取れた。
自分の中では仮面ライダー電王とごくせん3で情報が止まっていたので、今回こういった形で石黒さんの演技を見ることができてとてもうれしかった。
◎ミゼットプロレスラーの出演
一役者として参加されているので特筆するのは返って失礼かとも思ったが、だからといって無視するのもおかしな話だ。
今回の舞台には、ミゼットプロレスラーとしても活躍がある、プリティ太田さんが出演されていた。
(ミゼットプロレスとは、いわゆる低身長症の人が行うプロレスのことである)
ハンディキャップともされる強い個性があって、今回のような大舞台のアンサンブルにキャスティングされたということは、表現者としてかなり高い評価を受けていることになる。
それは今回同じくキャスティングを受けた野澤健さんにも当てはまるだろう。
自分は足が悪いのを理由にさまざまなことを諦めてきたクチなので、彼らのような存在が活躍しているのを見るといつも心が打たれる。
この記事がご本人たちのお目にかかるかは分からないが、特筆したいくらいには心に響くものがあったと、ここに記録として残しておきたい。
ちなみに以前プリティ太田さんが出演された、『探偵ナイトスクープ』のミゼットプロレスの回はテレビ史に残るとても印象的な放送だったので、叶う方にはぜひ見ていただきたいと思う。
─イアーゴーの小さな世界─
◎殺戮エンドの意図を考える
小見出しの内容について語るため触れておきたいのは、イアーゴーと地球儀のシーンである。(地球儀とは、ヴェニスの議員たちが会議を行っていた部屋にあった布製の風船。大きさは成人が一人収まるほど)
議員たちが去ったあと一人で悪事を筋書いていたイアーゴーは、おもむろにその地球儀で遊び始める。
頭上へ放り投げ、その下でターンをし、また高く浮かび上がらせる。
その姿を見たとき、彼はきっと、世界がすべて自分の手の内にあって何でも思い通りにすることができる、と思い込んでいるのだろうと察した。
同時に、だとしたら彼の思い描く世界はなんてちっぽけなんだろう、と思った。
イアーゴーは、とても小さな世界で生きてしまっている。
だから、戯曲になかったラストの殺戮シーンは、彼の妄想なのかもしれない、と結論づけることにした。
嘘をつく才能に恵まれてしまったイアーゴーが招いた悲劇は、もはや彼にすら歯止めをかけることはできないものになっていた。
そして想定外だったエミーリアによる暴露やロダリーゴーの証言で、逃げ場も失ってしまう。
そうしていよいよ精魂尽き果てたイアーゴーが最後に思い描いたのは、まるで面倒くさいすべてを抹消するかのような、他者による大胆な殺戮。
これまで懸命に描いた絵をめちゃくちゃに塗りつぶすように、彼は考えることを投げ出してしまったのかもしれない。
これが自分の出した、納得のいくラストシーンへの解釈だ。
─最後に─
◎身の上話と今井翼さんへ
私は成人してから精神疾患に罹りました。
会社を辞めざるを得ず、中途半端な休養をとっては再就職、またしんどくなって退職。そんなことを繰り返して、去年にからは家に完全に引きこもっていました。
しかしある時ジャニーズWESTにハマって、神山くんがこの舞台に出ると知ってから社会復帰を志すようになり、なんとか東京へ出向けるくらいの生活レベルへ戻すことができました。
これから先も、いつ何がきっかけで気持ちが辛くなってしまうのか分からない、という不安はあります。
けれど疾患に押しつぶされずにいられる”今”があるのは確かなので、原動力がなんであれ”今”こうして存在していることに自信を持ちたいと思います。
だから…と自分と重ねるのはあまりにも身の程知らずかもしれません。
けれど、私はこの度の今井翼さんの発表について、他人事に思うことはできませんでした。
一番悔しいのはご本人だと思います。
だからこそ、こちらからかけられる言葉はなにもありません。
だからこそ、思うことはたくさんあります。
どうか、まだ先のある人生を豊かにできるよう、そして”今”に自信を持てるよう、しっかりお休みいただきたいです。
一視聴者の私から言えることは、これだけです。
今回のオセローを見て思ったことは以上です。
お付き合いくださいました方、ありがとうございました。